May 28, 2007

国際的・学際的・総合的研究の創造性-国際日本文化研究センター創設20周年に想う-

2007年5月21日.

国際日本文化研究センター(日文研)は,創設20周年を迎えた.


日本文化を研究するためには,関係する個別専門分野ごとの成果が着実に積み重ねられなければならない.

と同時に,専門分野の枠組みを越えて,研究者が相互に知見を高めあう場が必要である.

そのため,日文研では,国際的・学際的・総合的な観点から,日本文化に関する研究課題を設け,所属する研究者はもちろん,国内外から参加する様々な分野の研究者により研究が行っている.

日文研の活動は,従来の学問的枠組みとは大きく異なるものである.

しかしながら,その理念や研究方法は,自然と人間の歴史的営為が地球規模で複雑に絡み合って生じる21世紀の様々な難問に立ち向かおうとするなかで,先駆的なものである.

実際,各大学においても,専門性の高い研究だけではなく,総合的に考察するという学問が必要とされてきている.

総合政策学部や総合人間学部といった学部の設置は,その事情をあらわしている.

今回は,国際的・学際的・総合的研究について,日文研の研究活動を紹介することを通じて考えてみたい.

nichibunken



国際日本文化研究センター
日文研は,我が国に18設置されている大学共同利用機関のひとつとして,1987年5月21日に創設された.

大学共同利用機関とは,1971年の高エネルギー物理学研究所を第1号に,我が国独自の方式として,国内外の大学研究者が共同で利用でき,各種の高度で大型の研究施設・実験設備又は貴重な学術資料等を保有する,日本が世界に誇れるトップレベルの研究機関である.

大学共同利用機関での研究活動の多くには,予算や研究効率等の面から人材や研究資金等が重点的に投入され,独創的で最先端の研究が行われている.

例えばニュースや新聞で耳にする,ハワイにある世界最大の大型望遠鏡「すばる」や南極観測船「しらせ」.

これらは,大学共同利用機関である国立天文台や国立極地研究所の施設である.また,

論文検索などに用いるGeNiiも大学共同利用機関である国立情報学研究所が運用している.

また,日文研は人間文化研究機構を構成する研究機関でもある.

人間文化研究機構は,2004年に設立された研究組織であり,国立歴史民俗博物館国文学研究資料館国際日本文化研究センター総合地球環境学研究所および国立民族学博物館という5つの研究機関によって構成されている.

これら諸機関は,学問的伝統の枠を超えて連合し,自然環境をも視野に入れた人間文化の総合的研究拠点を形成し,そこから新しいパラダイムを創出し,研究をすすめている.


研究活動
日文研に所属する研究者の専門分野は,非常に多岐にわたる.

専任教員の専門分野だけでも,社会学,歴史学,民俗学,国文学,中国文学,比較文学,文化交流史,労働経済学,音楽学,造園学,意匠論,情報学,情報通信工学,考古学,環境考古学,イスラーム政治思想史などである.

方法やテクストの異なる専門領域の研究者が,共通の課題のもと研究を行うことは難しい.

そのため,様々な専門分野をもつ研究者が,日本文化の総合的な究明をもたらすべく,その方法として研究域・研究軸を設定している.

研究域・研究軸は,個々の研究が日本文化研究総体のなかでどのように位置付けられるかをしめす座標である.

これにより,個々の研究は,たがいの位置関係を把握することができるようになる.

そして,この座標のなかの空白を新しい研究が次々に充填して行くことで,総合的な日本文化の究明を試みる.

そして,それは個人の研究活動だけではなく,異分野の研究者による共同研究で最も効果的に展開される.

そのため,日文研が最も力を入れているのは,共同研究方式の日本文化研究である.

関係する個別専門分野ごとの成果の蓄積と合わせて,専門分野の枠組を越えて,研究者が相互に知見を高めあうことで,総体として日本文化理解を促進させることを目標としている.

共同研究では,日本と異なる知的伝統にたつ海外の研究者との交流をも重視している.

異文化からの視点は研究に新しい展望と成果を与え,また研究のあり方に,よい意味での相対比をもたらす.

さらに,国際化の時代を迎えた今日,日本文化研究もまた国際化をはかることで,時代の要請に応えることができる.

日文研の共同研究は,単なる研究成果の交換にとどまるものではない.専門分野及び知的伝統を異にする研究者が研究過程を共有することによって生みだされる創造性,これこそが,日文研の共同研究が目指すところである.

なお,平成19年度では,昨年度からの継続も含めて15の研究課題が設定されており,共同研究以外にも,「文明研究プロジェクト」「伝統文化芸術総合研究プロジェクト」など,多様なテーマを対象に共同研究がされている.


図書館



研究協力活動
日文研は,研究活動とならんで研究協力活動を設置目的のひとつに掲げている.

研究協力活動は,海外の日本研究がいっそう活発化するための一種の研究支援活動である.

その具体的内容は,海外への日本研究情報の発信と,世界に日本研究者の交流を促進する活動に分けることができる.

日本研究情報の調査と発信では,図書館の蔵書の基本的性格も日文研固有の研究活動と研究協力という観点から構想されている.

すなわち,日本研究書の体系的収集,分野を問わない日本研究に必要な資料集・全集・辞書など基本的図書の充実,最新の日本における日本研究の成果の収集,日本で必要な研究資料に効率的にアクセスできるように各種の目録の収集など,その情報を広く海外に発信することも考慮し,蔵書の整備と構築を続けている.

なお,日文研の研究成果は,『日本研究』などの出版物「日文研フォーラム」や「国際研究集会」などの講演会・シンポジウムなど,様々な形で順次国内外に提供している.


大学院教育
我が国初の学部を有しない大学院大学として,総合研究大学院大学がある.

その課程は,博士課程のみであるが,大学共同利用機関を基盤として高度の研究機能を生かし,各研究機関の施設・設備を利用し,また各研究機関の教員により指導が行われている.

日文研においても,文化科学研究科国際日本研究専攻の基盤機関として,国内外の諸分野における日本研究の成果をもとに,学際的・国際的視野から新しい日本研究を確立する研究と教育を行っている.

全教員の指導による単一の教育・研究指導分野として,「国際日本研究」を設け,国際的な立場から「日本研究」の理論的・方法論的な枠組を明確化する研究指導を行い,高度で視野の広い国際性豊かな研究者の育成に務めている.

また,国際的な視角から日本研究者を育成することを目指し,外国人留学生を積極的に受け入れている.

他大学の博士課程の院生に対しては,「特別共同利用研究員」として受入れ,研究指導を行っている.

研究室


国際的・学際的・総合的研究の創造性
園田英弘(1994)は,「複雑化した世界を研究するのに,研究者が単純すぎる観点しかもてないとすれば,それは不幸なこと」と指摘した.

園田の指摘は極端ではあるものの,しかし,21世紀は,専門志向的あるいは課題追求的研究を出発点としながらも,ひとつの専門だけは対象の深い分析も不可能になりつつあり,また課題追及的研究も専門志向的研究の豊富な理論とデータの蓄積があってはじめて可能となるため,いずれかの方法だけで研究を遂行することは難しい.

このように考えるならば,専門志向的あるいは課題追及的研究が相互補完的に作用すること,大げさにいえば,一人の研究者が社会学者であり国文学者であるという立場となることで,新たな第3の学問的枠組みをもって研究を行うことができる.

梅原猛は,『日本研究』の創刊の言葉で「このセンターは国際的・総合的な共同研究の機関であるが,同時に新しい学問の創造の機関でもある」と述べた.

はたして,国際的・学際的・総合的研究により,新しい学問が創造され,人間文化の新しい研究をすすめることができたか,否か.その答えは,日文研の20年の研究成果が証明していよう.

ともあれ,日文研では,今日も領域横断的ともいえる国際的・学際的・総合的な研究方法で,想像を超える創造を目指し,研究を行っている.


【会員便り】
平松隆円 2007 国際的・学際的・総合的研究の創造性-国際日本文化研究センター創設20周年に想う-,繊維製品消費科学,社団法人日本繊維製品消費科学会,第48巻,5月号,pp.69-72  
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January 05, 2001

SPPCモデルによる大学生の自己概念の検討

我々は,社会を通して自己に関する知識を蓄積し,自己の能力,行動,性格などを評価し自己の存在を受け入れている.

一般的に,自己に関する概念は自己概念(self-concept),それを受け入れることは自己受容(self-acceptance)と呼ばれる.この自己概念は,自己認知 (self- perception)と自己評価 (self-evaluation)に大別される(山本・松井・山成 1982).自己認知とは,「スポーツが得意だ」「社交的だ」などといった様々な要素から構成される自己の認知的側面であり,他方,自己評価とは,「自分に満足している」「自信がある」などといった自己に対する評価的側面である.なお,自己受容は自己評価とほぼ同義とされている(Rogers 1949,Silber 1965,中村・板津 1988).

人は,他者との相互作用なかで形成した自己認知をどの程度のものであるか,評価している.評価は,ある基準における優劣だけが問題になるのではなく,自己にとってそれが満足できるものか否かが重要となる.

さて,自己認知と自己評価の関係について,沢崎(1984)は適切な自己評価が行われるためには正確な自己認知が必要であり,両者は相互依存的な関係であると指摘する.白波瀬(2004)は醜形恐怖症,自傷,摂食障害などの多くは,極端に低くまたは不適切に自己の外貌を認知することにより,自己評価が低くなり自己を受け入れることができず精神病理として発症していると指摘する.

これらの指摘は,自分自身をどのように受け入れ,また安定した自己像が形成されているかについては,自己の適切な認知が重要であるという知見を提供する.もちろん,我々は自己について一つの側面だけを認知しているわけではない.Fromm(1947)は,地位や名誉,経済力や運動能力,学校の成績や友人関係など様々な要素の卓越さを他人に認められ,また自分自身も肯定的に認知することで精神的な安定,すなわち自己評価を高めると指摘する.そのため,自己評価を高める要因としての自己認知については,可能な限り多面的にとらえる必要がある.


本研究の目的は,自己について多面的にとらえているHarter(1985)のSelf-Perception Profile for Children(以下SPPC)モデルにより,大学生の自己概念の構造について検討を行うことである.

SPPCとは,Scholastic Competence(学業能力),Social Acceptance(友人関係),Athletic Competence(運動能力),Physical Appearance(容姿),Behavioral Conduct(品行)という5つの下位尺度からなる自己認知に関する30の質問項目と,Global Self-Worth(全体的自己価値)という1次元の自己評価に関する6の質問項目から構成されている.なお,全体的自己価値とは他の自己認知的側面とは独立して存在するとされ,ありのままの自己を抑圧・歪曲なしに受け入れることとであり,自己評価を意味している(Harter 1985).これまで,日本においてSPPCを用いた研究は,児童を対象としてものにいくつかある.

桜井(1983)は,SPPCのもととなった,Cognitive(学習),Social(友人),Physical(運動),General Self-worth(全体的自己価値)の4つの下位尺度を構成する28項目からなるPerceived Competence Scale for Children(Harter 1979,以下PCSC)の日本語版を作成し,検討している.その結果,原尺度と共通性の高い日本語版が作成され,学習と全体的自己価値の年齢の上昇にともなう単調減少傾向と,運動と全体的自己価値の男女差を明らかにしている.

藤崎・高田(1992)は,小学生にはSPPCを,成人にはSociability(対人関係),Job Competence(仕事),Nurturance(養育),Athletic Abilities(運動),Physical Appearance(容姿),Adequate Provider(供給),Morality(道徳),Household Management(家事),Intimate Relationships(親密な関係),Intelligence(知的能力),Sense of Humor(ユーモア),Global Self-Worth(全体的自己価値)の12の下位尺度を構成する50の質問項目からなるAdult Self-Perception Profile(Messer and Harter 1986,以下ASPP)を,中学生や高校生や大学生にはASPPのうち対人関係,運動,容姿,道徳,親密な関係,知的能力,全体的自己価値の7つの下位尺度を用いて横断的に発達的変化を検討している.その結果,小学生では全体的自己価値と友人関係,中学生では全体的自己価値と容姿,成人では全体的自己価値と仕事が1つの因子として抽出され,発達段階により全体的自己価値に強く影響している下位尺度が異なることを明らかにしている.また,年齢の上昇により 友人関係,対人関係,親密な関係といった人物との関わりを重要と考え,小学生では友人関係や運動能力,中学生以上では知的能力,運動,容姿,全体的自己価値について男性は女性に比べ有意に高いことを明らかにしている.

前田(1998,1999)は,SPPCの日本語版を作成し,それを絵画式に改訂したうえで健康状態の異なる児童で検討した結果,健康上慢性状態にある児童群は対照健康児童群に比べ運動が否定的ではあったものの,その他については有意差がないことなどを明らかにしている.

眞榮城(2000)は,SPPCの日本語版を作成し,児童期にいる者の自己概念を検討しているが,小学3年生から6年生と中学1・2年生に有意な差があり,自己認知や自己評価が中学1・2年生頃から低下することを明らかしている.

このように,SPPCは日本において既にいくつかの日本語版が作成され,日本人に適用可能であることが証明されている.そのため,本研究においても,大学生の自己概念を検討するうえ有効であると考えSPPCを用いた.Harterは,青年期を対象とするSelf-Perception Profile for Adolescents (以下SPPA) や青年後期を対象とするSelf-Perception Profile for College Students(以下SPPCS)など幼児から成人まで5種類の尺度を作成している.

本来,大学生の自己概念を検討するならば,SPPAもしくはSPPCSを用いるべきであるが, Harterの各尺度に共通して存在する基本的な自己概念の因子によって構成されているSPPCを用いて検討を行うことで,大学生の基本的な自己概念構造を明らかにしやすく,また様々な発達段階での横断的な比較検討が可能であると考え,本研究ではSPPCを用いた.

さらに,これまで,日本において作成されている自己概念に関する多くの尺度は,当然のことながら日本人のみを対象としており,他国において比較検討された例をみることはほとんどない.しかしながら,SPPCは,スコットランド(Hoare et al 1993),オランダ(Van Dongen-Melman et al 1993),アラブ首長国連邦(Eapen et al 2000),フランス(Worth-Gavin and Herry 1996)をはじめとする様々な国において,翻訳・比較研究が行われているため.SPPCを用いることで今後,自己概念についての国際的な比較検討が可能であると考えられる.


【原著】
平松隆円 2008 SPPCモデルによる大学生の自己概念の検討,佛教大学大学院紀要,佛教大学,第35巻,pp.77-89  ENGLISH PAGE
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January 04, 2001

一柳満喜子の生涯に関する一考察

一柳満喜子(以下,満喜子)は,明治,大正,昭和を生きたクリスチャンであり,教育者である.特に,幼児のために,多くの実践をおこなった.満喜子によって設立された学校は,今日も保育所,幼稚園,小学校,中学校,高等学校までも有する近江兄弟社学園として存続している.
満喜子による教育事業について,夫の一柳米来留(William Merrell Vories:以下,メレル)は次のように語る.

教育事業は,満喜子の創意にかかるものであった.満喜子は新しい方法を紹介し,生徒ばかりではなく,教師も訓練の対象としている

メレルは,一九〇五年に滋賀県立商業学校(現在の滋賀県立八幡商業高等学校)の英語教師として来日して以降,彼とその教え子である吉田悦蔵,村田幸一郎とともに近江ミッション(現在の近江兄弟社:以下,近江兄弟社)を設立し,建築家,伝道家,実業家として活躍した.その近江兄弟社での教育事業の中心を担っていたのは,メレルではなく満喜子であった.
しかしながら,これまでメレルに関する研究は数多く行われてきたものの,満喜子についての研究はほとんどない.
満喜子は,自らすすんでものを書くということをせず,依頼による講演や執筆が多く,満喜子を知る史料はほとんど残っていない.断片的ではあるものの,学校通信などの満喜子による文章の一部が一九五九年と一九七二年に文集としてまとめられているが,多くが未整理あるいは行方不明となっている.
また,華族出身でありながら,満喜子に関する公文書の一切が宮内庁や霞会館に現存していない.さらに,一柳家の系譜がまとめられている『一柳家史紀要』にも,満喜子の名前は登場しない.
伝記に類するものとしては,満喜子自身の手による『教育随想』所収の「辿り来し道をふりかえりて」やグレイス・フレッチャー(Grace Nies Fletcher)のThe bridge of Love(アメリカでの書名,イギリスではLove is the Bridge)がある.
「辿り来し道をふりかえりて」は,満喜子が自分自身について語った唯一の文章である.また,The Bridge of Loveは,ボストンのジャーナリスであつたグレイス・フレッチャーが一九六六年四月五日に来日,約一ヶ月にわたり一柳邸に滞在し満喜子本人からの直接取材を含めて関係者からメレルと満喜子について取材し,執筆されている.グレイス・フレッチャーが執筆に取り組むこととなったのは,一九六五年に満喜子が渡米し,十一月十六日にニューヨークの出版社E.P.Dutton & Co.,INCを訪れた際,「メレルの生涯は誰かに書かせ,広く読ませねばならない」と出版社がグレイス・フレッチャーを満喜子に紹介したことによる.
主にメレルに関する内容で大半が占められているものの,日本国内での出版が前提ではなかったためか,満喜子の生家での出来事をはじめ,近江兄弟社関係の出版物,また講演などで語られることのなかった極めて私的な内容も記されている.The Bridge of Loveはこれまで一度も日本語に翻訳されることはなかったが,現在,平松隆円を中心に翻訳出版の準備がすすめられている.
新制学校制度になってからの高校第三期卒業生たちが,『忘れられない教育者一柳満喜子先生の思い出「満喜子先生ありがとう」』を二〇〇六年に出版している.ここでは,第三期卒業生たちが満喜子の思い出をつづっており,断片的に語られるのみであった学校での満喜子の姿を知るうえで,貴重な史料といえる.

ローマンスめいたものは決して私の手では書きこなせませぬ

戦前,満喜子に接していた吉田悦蔵はその著書,『近江の兄弟ヴォーリズ等』のなかで満喜子について,何も書き残していない.
満喜子についての研究報告は,佐野安仁の「一柳満喜子の教育観」,石井紀子の「Constructing Christian Brotherhood: Makiko Hitotsuyanagi Vories and Her American Mentors」,奥村直彦の「ヴォーリズ夫妻の教育思想と「近江ミッション」教育事業の展開」のみである.
佐野安仁は『教育随想』を史料に満喜子の教育観を論じ,石井紀子は日米女性文化交流の立場から満喜子とメレルの国際結婚を題材にキリスト教とジェンダーについてまとめ,奥村直彦は主としてメレルに関心を置きながら,The Bridge of Loveを史料にヴォーリズとの関係のなかで部分的に満喜子を取り上げる程度である.ゆえに,いずれも満喜子に関する総合的な研究とはいいがたい.
このように,研究がほとんどおこなわれてこなかったこともあって,満喜子については,なお不明な点が多い.
そのためか,現在の近江兄弟社学園においてさえ,その創立者が満喜子であるにもかかわらず,事実と異なる言説もみられる.

満喜子先生が教育の責任者として君臨され,学園幹部はそれに忠実な方々で固められていましたから,いわば満喜子先生オンリーの考え方で…(中略)…一九九〇年ごろから意図的に学園創立者はヴォーリズ夫妻という風に表現して来ましたが,今でも学園創立者・一柳満喜子という表現が処々に見られます.ヴォーリズ百年を機に,ヴォーリズさんの研究をすすめ,ヴォーリズ精神を学園創立理念としてきっちり位置付ける

だが,メレルは教育事業には深く関わらなかった. メレルに代わって,教育事業を担ったのが満喜子である.

ヴォーリズのミッションで,一番の欠点は,教育事業のないことである

 賀川豊彦は,一九二三年の時点ではっきりメレルが教育事業をおこなってこなかったことを指摘している.

ミセス・ヴォーリズも聡明な人である.然し私は彼女のことに就てあまり知らない
 
また,賀川豊彦は満喜子について「聡明」とだけ記し,詳しくは語らなかった.
満喜子に関する研究は,たんに一人の女性の生涯を検証するにとどまるものではない.近江ミッションにおける教育事業はもちろんのこと,メレルの人的交流における満喜子の役割など,これまでのメレル研究では検討されてこなかった領域における新たな知見の提供が可能となる.一般的には,メレルが日本の建築や戦後の天皇制に影響を与えたといわれている.しかしながら,メレルの事業を人的にも経済的にも支えていたのは,満喜子にほかならない.その意味において,満喜子について検討をおこなうことは重要である.
そこで,本研究では満喜子の生涯について,特に彼女が近江兄弟社で担った教育事業に焦点を当てて概観し,満喜子研究だけではなく新たなメレル研究への萌芽としたい.


【資料】
平松隆円 2008 日本研究,国際日本文化研究センター(編),角川学芸出版,第37号,pp.201-245







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January 01, 2001

日本仏教における僧と稚児の男色

は じ め に
『稚児乃草子』という,京都醍醐寺に蔵される絵巻がある.

その内容は,年老いて陰茎が立たなくなり挿入できなくなった僧を不憫に思い,尻の穴を拡張するよう努力した稚児の話など,5つの物語からなる僧と稚児との男色物語である.


仏教では,僧は女性と交接を持つことを「女犯」として禁じられ,そのため僧は男性,とりわけ稚児を交接の対象としてきた.

なぜ,僧は女性と交接を持てないという理由で,稚児と交接を持っていたのか.肉体的に男女差の少ない少年である稚児を,女性と同じように化粧をさせ,女性の代替としてその穴を犯していたのか.

もしくは,稚児という力弱くしなやか者に欲情するのが,男である僧の性なのか.


本研究は,仏教的視点から僧と稚児との男色の構造を明らかにしていきたい.


仏 教 と 男 色
「生男の若年を夜の御座にめされて,回門ぐちをぬらし給ふ元祖上人は,たれやらんぞと聞ば,実か虚言か,弘法大師の御さく也とかや」

「若道の元祖弘法大師へ御礼申さんと」

「衆道の元祖はしらね共,先近代あまねく万民にひろめたまふはありかたくも.弘法大師なり」

「日本にては,弘法大師,這道の御開基たり.一休和尚の詩に,大聖文殊元開闢」
男色について,江戸時代では文殊菩薩が発見し,空海が日本に伝えたというのが一般的であったようである.しかし,これに異を唱えるものもある.

「凡男色の道は,弘法大師入唐のみきり,五台山に至り,文殊師利菩薩より授かり来り,我朝にはじめたまふなんどゝいふ族あり.是大なる僻言なり」

「衆道の論.漢に是を非道といひ,変道とよふ.吾俗兄弟分の誓といひ,衆道といふ.世々女色の戒めはあれど,男色にいたりて禁なきは不審.其着する所は,愛欲頗る女色よりも重し.箴むべき事なり.諺に空海に始まるといふは誤りなり」

これらは,男色は空海が広めたものではないと否定する.

「周の穆王は慈童を愛し,菊座の名を広くし,漢の高祖は籍儒を愛して,秦の後門を破れり,尚書に頑童を近づく事なかれとあり」

「弘法大師は渡天のみぎり,流砂川に上にて,文殊と契給ひしより,文殊には支利菩薩の浮名をながし,空海師は衆道の祖師と汚名をとどめたり」

空海は,延暦23年(804年)に遣唐使船に乗り,大同元年(806年)までの2年間,唐で仏教の教えを学んだ.

空海が留学していた9世紀前期の中国では,男色が盛んであり,男娼も存在したといわれる.

空海はともかく,空海に同行した他の修行僧や留学生たちが,男色を唐という当時の日本からすれば先進国の文化を持ち帰り,広めたと考えることは十分可能であろう.

しかし,これだけを根拠とすることは難しい.

なぜなら,しばしば江戸時代において仏教は,国学者や儒学者たちから社会規範を乱すもの,社会に役に立たない穀潰しの宗教として非難されていたからである.

すなわち,国学者や儒学者が仏教を批判する場合,僧たちが行う男色を批判理由の一つとし,そして空海の名を挙げ,男色と結び付けていた.

そして,その批判が宗教家のなかだけではなく,庶民にも浸透するようになり,多くの男色文学で空海の名が取り上げられたからである.


仏 教 者 た ち の 男 色
「出家にも俗人に変はらぬ天性の水あり.此水はながす事もなくせきとめておきたるばかりにては洪水となってほとけのいましめをやぶり,女をおかす心いでくるものなり.これ大水なる時は河水堤をやぶるがごとし」

仏教では菩薩の位を持つ僧であっても,もとは武士や農民と同じ人間であり,男である.

人間である以上,性欲があるのは当たり前であり,我慢をしすぎるとかえって女犯を犯す危険が高まる.

では,どう処理すればいいのか.

「ぼんのふの悪水をながす衆道といへる大河をこしらへ,末世の沙門にこれを示す」

残った方法は一つしかない.僧は,女性ではない者,すなわち男性との交接を選びとったのである.

僧の近くにいる男といえば,同僚僧か僧の身辺の世話をする稚児しかいない.

いくらなんでも,僧同士で交接を持つわけにはいかない.

いや,持っても良いのかもしれないが,浄土往生を願い,人々を救済しようと寝食をともにする僧たちで交接があれば,いつ襲われるかわからず,おちおち修行などしていられないだろう.

それに,どんな男でも良いというわけでもない.

やはり,交接を持つからには,美しい者と交わりたいと考えるのは人間の性である.

僧は,薪取りや博打打と並ぶ醜貌の職業であった.


仏 教 者 の 身 体
今日に生きる我々は,人を見た目で判断してはいけないと思う.

しかし,それは儒教的な考え方であり,仏教的な考え方ではない.

「上品の善功徳を修すれば,一丈七尺の長身を得む.下品の善功徳を修すれば,一丈の身を得む」

仏教には,すべての事象には原因と結果があり,人間の行う善行にはよい結果としての報い,悪行には悪い結果としての報いが生じるという因果応報の思想がある.そして,美醜は前世での善行や悪行の因果であり,容貌が美しいということは前世での行いが善いことの現れと考えられるようになり,美は,尊ぶべきものと考えられるようになっていく.

醜貌でこの世に生を受けた者ならば,少しでも美貌になりたいと思うのは当然であろう.

そして,現世での美醜が前世での善行や悪行に原因があるのなら,この世で少しでも多くの善行を積み,来世こそは美貌に生まれ変わりたいと願うはずである.

そのためには,貴族や武士や農民でいるよりも,出家し僧となり菩薩の位をえたほうが手っ取り早いに違いない.

そう考えるならば,僧に醜貌が多かったという指摘もうなずける.

いや,多かったというよりもむしろ,醜貌者を僧にさせるという社会的背景があった.

明恵は彼の父が明恵の容貌が美しいことから平重盛に仕えさせようとしたところ,美貌のため僧となれないのであればと,焼いた火箸により顔を焼こうとしたり,縁から落ちたりして,醜貌になろうとしたという.

そんな,醜貌の僧が大勢いるなかで召し使われ,身辺の世話をしてくれる稚児が美しかったら.

その羨望の眼差しは,外見的な美に対するものだけではなく,前世の功徳の結果としての美への憧れとして注がれ,そして自らは持ちえないものに対する欲へと変化していくことであろう.

醜貌である僧は,美貌である稚児と交接を持つことで,稚児の身体の中に乗り移り精神的に一体化し,前世の功徳としての美を得ようとしていたのではないだろうか.


稚 児 と は 何 か
寺院で召し使われる稚児には,皇族や大貴族の子弟が見習いで寺に預けられる者,中流貴族の子弟で預けられる者,庶民階級が美貌など一芸により雇われる者の3つがあった.

そしてこのうち,皇族や大貴族の子弟以外の者が僧の交接の対象となる稚児となっていた.

最初は,

「稚児にとりたて剃髪いたせ,まづ卿名と申候て三位中将あるいは宰相などの名を付け,四度の加行と申候て護摩あいすみ,そののち,授者,瑜伽,秘密と申す三箇の灌頂修行いたせ,次に四十以上にて阿闍梨職灌頂まで年序次第に従ひ相勤め申候と規定」

されていた稚児であったが,いつのまにか,

「そういう堂上家の子弟に対する格別なはからいも世が下るにしたがって何時となく乱れ,ただ人の子息を稚児として飼いならし」

められていくようになる.

出自がどうであれ,やはり自分の身辺の世話をさせ常にそばにおくのであれば,美しい稚児を置いておきたい.

『きのうはけふの物語』には,春秋の彼岸のときに大金を渡す約束で若衆を口説いた高野聖の話などがあり,どんなことをしてでも美しい稚児をそばに置きたいという思いが強くあったのだろう.

また,僧は美少年がいると聞けば自分の稚児とするために,人買いから買い取ったということも少なくなかった.


男 色 の 対 象 と し て の 稚 児
稚児である少年と交接を持つことは,仏教ではどのように考えられているのか.

『往生要集』には,

「悪見処と名づく.他の児子を取り,強ひて邪行を逼り,号び哭かしめたる者,ここに落ちて苦を受く」

とする地獄が描かれる.また,

「多苦悩と名づく.謂く,男の,男において邪行を行ぜし者,ここに落ちて苦を受く」

とする地獄が描かれる.

このように,本来は地獄に落ちる行為であるものの,僧は稚児を交接の対象として扱ってきた.

僧にとっては稚児との交接は,地獄に落ちてもいいほどの抑えきれない愛欲であったのか.

また,経典に角筆で「児尻舐,児尻セう,尻」と落書きし,修業中にまで稚児の尻を舐めたいと思ってしまうほどに,稚児が僧を欲情させるのか.

「我等一切の衆生の胸底に八葉の蓮華あり.この蓮華,善念起こる時は開き悪念起こる時はしぼむなり.この蓮華の中に心王大日尊すみ給う.心数は八万四千塵労門なり.是を曼荼羅ともいうなり.煩悩の炎起こればしぼみ炎消ずれば開くなり.租犯にでもあれ犯して後十二刻の程は仏神に詣るべからず.その故は煩悩の火に焼死する所の八万四千の虫の香くさし.是をば仏きらい給ふなり.天魔は是を悦びで障礙を成すなり.されば仏法僧は堪忍すべきものなり.是は浅略一分の道理なり.忍び難きときはただ沙弥と小児に付いて煩悩の火を消すべし.されば稚児は菩提山王の垂迹なり」

「我ら一切衆生観音の大慈に預りて無明煩悩を断る間過なきものなり.故に自然戒門と云ふなり.但し我ら欲しいまゝに犯すべきにあらず.もし顛倒妄想に引かれて煩悩の炎起せば犯すべし.たとえもし犯すともかくの如くこの灌頂の児を犯すべし.もし無灌頂の児を犯さば三悪道の種因となるべし.これを犯す時観音ただ想に応じ児は等覚深位の薩唾我は円の初住の菩薩と思ふべき故に初住の無明煩悩を等覚智にて断ずる意なり」

僧と稚児との間には「児灌頂」という思想があった.

すなわち,僧はたんに女性の代替として稚児と交接を持っていたわけではない.

僧と交接を持つ稚児とは,たんなる美少年ではなく菩提山王という菩薩であったのだ.

そのような菩薩である稚児との交接,稚児と肌を触れ合うということは,菩薩と交わることを意味している.

中世,『秋夜長物語』『あしびき』『上野君消息』など稚児物語と呼ばれるジャンルの物語が登場するが,物語の主題は僧が稚児との交接を通じて仏道を悟るというものである.

そして,その場合の稚児は,やはり文殊菩薩や観音菩薩の化身として描かれている.

僧が稚児と交接を持つということは,男としての愛欲を解消するという意味ではなく,菩薩の救済を得る行為なのである.

児灌頂という思想により,醜い自己を離れ美を精神的に獲得しようと,また菩薩と一体化するような感覚を得るために,僧は稚児との交接が必要だったのだ.


男 色 の 対 象 と し て の 稚 児 の 意 識
児灌頂の思想のもと,菩薩の化身となり交接によって人々,特に僧を救うことを求められた稚児であるが,では菩薩となった稚児自身は,そのことをどのように感じていたのか.

「寺院に7,8歳で引き取られ,実家からは一文半銭の出費もさせることなく育てられた.寺小姓から成人すると片付と称し,出家得度して僧になる者は,和尚様が師となり仏門に入らせて生活が保証された.僧に入門しない者は御家人・同心の株を買ってやり,将来の生計を確約する.上野寛永寺宮様の御控所へ京都から供してきた寺小姓に,お暇があるときは賜り金は50両100両の大金が授与された」

我慢さえすれば大金のお小遣いがもらえ,さらに僧にも御家人にも同心にもなれ,将来が約束されるのである.

そして,親にすれば一切の費用がかからず.子が育ててもらえる.

しかし,その内実は僧の男色の相手として子が買い取られたに過ぎない.

だが,必ずしもすべての稚児が将来を安泰に送ったわけではない.

寺院に籍を置かない正式でない僧になる場合や,僧になれず生涯を童形のまま過ごす場合も少なくなかったようである.

「行儀見習いと学習で,幸菊という独り子を寺にあげた.両親が進物品を持って法師の下に参上した.幸菊を寺の者が小穴と呼び,なんと奇妙の言葉かと両親が幸菊に聞く.この寺で下戸の別名を小穴というと答え,さもあらんと合点して寺を去った.再度夫婦で寺に参上したとき,寺の接待でしきりに酒を勧めると,幸菊の母が物知り顔で,私は全く下戸にて子幸菊は広穴ですから,酒は幸菊にすすめくださいと申した」

親は,学習や躾のための見習いと思い,また貧しさゆえに僧に救いを求めて子を寺に預けていた.

まさか,自分の子が僧の交接の相手をさせられているとは思いもよらなかったはず.

そして,稚児となった少年も,自分が僧の交接の相手であるとは親に話し難かったことであろう.

僧と稚児とその親をめぐる小咄は,稚児が親に自らが交接の相手であることを隠そうとする必死さと,それにともなう言い訳が引き起こす親の的外れな言動が面白さを引き出している.

しかし,これらは小咄である以上,僧の間だけではなく一般庶民にまでも稚児の実態が知られていたことを意味する.

とするならば,寺に預けた我が子が僧たちの性の相手となっていたことを,親たちは知っていたことになる.


お わ り に
僧にとって,稚児との交接はたんに女性と交接が持てないために,性欲の処理という意味だけで行われていたわけではない.

稚児との交接は,現世に醜貌として生まれたがゆえに僧になった者の美貌である稚児への憧れと,稚児が菩薩であるとする児灌頂の思想のもと,救済と功徳を得るための仏教的な行為として,行われていたのである.

しかし稚児は,もともと学問や行儀見習いのため寺に預けられた少年であり,仏弟子として僧の身辺の世話を行う少年である.そんな稚児たちの一部は,美貌というだけで僧に強奪され,また人買いを介して購入された者である.

稚児の発生の当初においては,菩薩の化身であるがゆえに寺院に稚児を置いていたわけではない.

また,稚児たちの男色の対象となることの打算と悲痛さは,多くの書物にみることができるものの,菩薩として喜んで交接の相手となるような文献を見つけることができない.

そのため,この稚児が菩薩の化身であり,稚児との交接は救済や功徳であるとする思想は,仏教的な思想や教義に十分に裏付けられたものではなく,女性との交接は公に罰せられるために,刑罰の対象とならない美貌の稚児と交接を持ちたいものの,それもまた破戒であり来世で地獄に落ちる可能性があるため,それを回避しようとする僧の方便の結果として生まれたと考えることができよう.

稚児が菩薩の化身であり,それゆえ稚児との交接は破戒ではなく,むしろ功徳であり救いである.

この児灌頂の思想は,女性と交接を結ぶときは如意輪観音がその女性になっているため,破戒ではなく救済であるとする親鸞の夢告とよく似ている.

児灌頂も夢告も,これらの思想は性欲を解消し交接を持ちたいという僧の切実なる願いが,仏教に付会して僧の性欲を合理化するにいたった結果,生まれたものにすぎない.


【原著】
平松隆円 2007 日本仏教における僧と稚児の男色,日本研究,国際日本文化研究センター(編),角川学芸出版,第34号,pp.89-130


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January 01, 1990

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― 日文研・伝統文化芸術総合研究プロジェクト講演会 邦楽と西洋音楽を超えて ―
日本の伝統社会には,世界的なレベルで光彩を放っている文化芸術の資産が,枚挙に暇がないほどに豊富に存在している.しかしながら,これら数多ある日本の伝統的な文化財は,あくまでも古典的な価値のものとしてしか取り扱われていないというのが実情である.

伝統文化芸術総合研究プロジェクトは,日本の伝統社会において形成・継承されてきた各種の文化・芸術を総合的に研究するとともに,これら古典的な文化・芸術財を現代の資源ととらえ,それらを現代日本社会の中において活用,展開することによって,新たな文化・芸術の創造を追究していくことを課題とする.


今回の取り組みは,能楽の音楽のなかでも重要な役割を演ずる能管(笛)に注目しつつ,日本の音楽と西洋の音楽というまったく異質な二つの音楽世界を統合的に捉え,そして更に高次の音楽的世界を創造するためには,どのような方法,どのようなアプローチがありうるかを模索する試みである.


2008 年 2 月 15 日(金)@ 国際日本文化研究センター


●第一部 講 演
伝統文化と現代―多元的グローバリズムを目指して―

笠谷和比古 (国際日本文化研究センター教授)








●第二部 ワークショップ●
能管と西洋管弦楽との統合,そして超越
作曲・楽曲解説:武内基朗 (作曲家)
コメンテーター:藤田隆則(京都市立芸術大学准教授)
         細川周平(国際日本文化研究センター教授)
コーディネータ:笠谷和比古(国際日本文化研究センター教授)  
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